令和6年能登半島地震の被害が明らかになってきました。心よりお悔やみとともにお見舞いを申し上げます。一瞬にして漁港がなくなりました。自然の力の前には人間の力がいかに無力であるかということを思い知らされます。奥能登という地域は過疎化が進みつつあり行政の資金も投資できていなかったというのはあるのでしょうが、元旦に地震が起きてから被害状況が明らかになるまでにこんなに時間がかかるのは情報伝達の手法が過疎化地域には広がっていない証明と思いますし、ここに大きな問題があるような気がします。インターネット等が普及する世の中で正確な状況がこの地域から得られない事に大きな問題を感じるのですが私だけかな?
12月の思風塾の講義で、人間性が過去千年全く進化していないということを聞きました。ガザの戦争の原因は宗教や歴史的な民族紛争であるというのが根底にあります。本来宗教が人を救うということであればこうした戦争は起きないと思います。互いに自分が正しいと主張をする。相手の考え方を自分の考え方にねじ伏てでもわからせようとする行為は、人間性を成長させていないと思風先生から伺いました。過去の偉人であるイエスキリストや釈迦も素晴らしい教えを我々に伝えてくれていますが、その教えを実行に移したとしても人間性が成長したとは言えない状態であるということです。なぜ、人間性が成長していないかというと、イエスや釈迦の千古の教えは、我欲を捨てて神のような完全性を人間に求めています。人間はミスをしますし、物事を忘れます。完璧を目指して生きることは大切ですが、完璧に生きることは無理だということを理解して人間関係をつくっていかなくてはなりません。しかし、千古も教えは、人間に完璧を求めさせるために本来人間が持っている我欲を否定し規律通りに毎日を過ごすことを強いているため、人間性が成長しているとは言えないのです。よって、現代の我々は、千古の教えに従って生きるのではなく、千古の教えを超えて新しい生き方をする必要があるということです。
ここで問題になってくるのが、人間性の成長とは何かということですね。人間性を成長させるために、人間には我欲があり、自分が主張している考え方は偏見であるということを認めることから初めます。我欲を無くしたり偏見をなくそうとすることは人間が人間でなくなるということです。我欲は自らの生きるための夢や目標の礎になります。理想の生き方を求めることは、自らが生きる今日の力となり明日を生きる糧になるのです。自分が考えていることは偏りがあるのだと自覚することは、結構難しいことだと思います。例えば誰かを話をしていて、なぜこちらの主張を相手はわかってくれないのか?と感じたことがあると思います。この時に自分の意見は偏っているのであると自覚し相手の意見と自分の意見を統合してゆくことが必要なのだと考える癖をつけること。そして、あの人は許せないと思った瞬間に自分の考え方が偏っているのだ、相手から何を学ぶべきことがあるのか?を感じ取る必要があるのだと自分を自分で教育をしていくことが必要であり、それが人間性の成長につながっていくのだと考えます。
より良き人生を生きるということは、人々が仲良く共に生きるということであると思います。大いに皆で意見交換をしながら働き易い仕事場にしてゆきたいです。